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古くから海外との交易が盛んな長崎の歴史

長崎は地理的に中国大陸と近いこともあり、古くから海外との交易が盛んな場所である。縄文時代からすでに海を行き来して朝鮮や中国と交易を行っており、海外の文化を受け入れる土壌ができていた。そのためキリスト教の伝来も早く、最初のキリシタン大名である大村純忠が長崎に港を開き、南蛮貿易を行って発展したのだ。

キリスト教を信仰する人々は多かったが、豊臣秀吉や江戸幕府によってキリスト教が禁止されるなど弾圧に苦しむことになる。江戸時代初期(1637年)には、日本史上最大といわれる一揆、島原の乱が勃発した。島原・天草に住む約3万7000人の人々が島原半島の原城に籠城して抵抗したが、幕府はキリシタン一揆として徹底的に鎮圧したのだ。

その1年半後に、鎖国が始まる。幕府の鎖国政策の中で、例外として貿易を許可されていたのが長崎の出島だ。幕府直轄の貿易港として海外との玄関口の役割を果たした。

鎖国が解かれた開港後も、長崎は貿易港として発展する。トーマス・グラバーなどの貿易商が長崎を訪れ、大がかりな事業を展開した。現在もグラバー邸宅など、当時の洋風建築物が復元・保存されており、観光スポットとなっている。

明治時代には佐世保に軍港が作られ、戦艦の建造などによって造船業が発展した。しかし、第二次世界大戦末期の1945年8月9日、長崎市に原子爆弾が落とされる。原爆がもたらした悲惨な歴史を心に刻むとともに、世界平和を祈念するために8月9日を「ながさき平和の日」と定め、毎年この日には原爆犠牲者を慰霊する式典が執り行われている。